2020
08/11
応援メッセージ
今年も期待していた高校野球が何とか開催された。
しかし、ご存じのように春の選抜に選ばれた32校によるたった一回の交流試合が甲子園球場で行われる。コロナ禍の影響による夏の甲子園大会の中止のため本来であれば開かれることのない甲子園での試合が、1試合のみではあるが、春の選抜に選出された高校のみが1試合闘うという異例の開催となった。とくに高校3年生にとっては最後の夏でもあり、なんとかトーナメントではないが、甲子園という高校球児のメッカで野球が出来ることは素晴らしいことでもある。
従来なら32校による選手入場などの開会式が行われ、5万人の観客の声援を受けるという舞台が、スタンドはほとんど無観客状態で、第1日目の試合をする2校のみの開会式となった。
その高校野球交流試合の開会で、主催者のあいさつで、「ありがとうの反対語を知っていますか」と、球児たちに問い掛けられた。たまたまテレビで見ていたわたしもノーベル平和賞の受賞者マザー・テレサが言った「愛の反対は無関心」か的な例えか? と考えた。反対語は、「コラ!」って怒ることか(笑)、それとも「迷惑」か(笑)、などと浅はかに考えた。答えは「あたりまえ」だった。
つまり、主催者のひとが言いたかったことは、例年なら当然ある入場行進も、ブラスバンド応援や歓声もコロナ禍の前では皆無である。その有り難さに思いをはせて、甲子園での高校野球という毎年の“あたりまえ”が、実は“ありがとう”なんだと言うことをわかってほしかったと言いたかったのではないだろうか。
調べてみると、ありがとうを漢字で書くと「有難う」となり、「有ること難し」という意味になるそうだ。あることがむずかしい、まれである。めったにない事にめぐりあう。という意味を持つらしい。
それこそ“奇跡”に近い偶然であり、その反対の言葉として、「当然」とか「当たり前」となるそうだ。
確かに旅行に行くのは自由なはずであり、田舎に帰省するのも自由であったはずが、今年は、国は行っても良いが、府県はダメと言ったり、自粛しろと言ったり、帰省したら「さっさと東京へ帰れ」と中傷ビラが投げ込まれたり、自粛警察があらわれ、マスクをしていないひとへの暴言が浴びせられたりするなど、「当たり前」ではない社会が広がってきているようである。
わたしたちは、毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしてきたが、コロナウイルスが広がりを見せるにつけ生活の一部に制限がかけられるという事態に直面した。当たり前が当たり前でなくなるという瞬間を体験した。
コロナ禍の影響により、人々の命と暮らしに対する不安は増大し、感染者を出した学校、病院が社会から厳しいバッシングを浴びせらるという事態が生じたり、治療などにあたる医療従事者とその家族に対する差別も各所で起こっている。社会的なバッシングは、自粛要請に応じない店舗や人々に対しても向けられている。
本来、未知のウイルスを封じ込めるという挑戦へは、人々の結束と協力があってこそ達成されるべき課題であるはずだ。それが、真逆に分裂と差別の行動に駆り立てている現状がある。「コロナはただの風邪」と言って東京都知事選挙に立候補した人物は、50人ぐらいのグループを形成し、マスクをせずに山手線に乗り込む迷惑行為を展開しており、政党まで立ち上げるという事態である。
「コロナへの感染は本人のせい」と捉える自己責任論が常につきまとう日本社会である。「うつす人」と「うつされる人」という分断で捉え、検査により感染が確定されたひとに対しては、「敵」とみなす社会が形成されていく。ハンセン病問題で、わたしたちは嫌と言うほど、排除と差別を見聞きしてきたにもかかわらず、ハンセン病患者は人間ではないとされ、法の枠外に置かれてきた事実を、またも同様の立場に追い込んでいくのか危惧されるところである。
「自粛警察」が行っているのは、自粛をしないひとへの注意だと主張している。こうした反自粛行為はルールから外れた逸脱行為であることから厳しく取り締まらなければならないというエスカレートした考え方となり、“行き過ぎ”が発生する。これこそが差別であり人権侵害を生む要因をつくりあげる負スパイラルだ。
めったにない社会に生かしてもらっているわたしたちだからこそ、「ありがとう」という感謝の気持ちを持ち続けることが大事なようだ。